出川哲朗の大伯父「三鬼隆」て誰?経歴、銅像の場所を紹介|出川哲朗の充電させてもらえませんか?|8/17
今日放送の出川哲朗の充電させてもらえませんか?において出川の大伯父の銅像を発見してゲストと共に興奮します。
その銅像やその人が何なのか、皆さん気になりますよね?
そこで今回は「出川哲朗の充電させてもらえませんか?|出川哲朗の大伯父「三鬼隆」て誰?経歴、銅像の場所を紹介」について紹介していきたいと思います。
出川哲朗の充電させてもらえませんか?|出川哲朗の大伯父「三鬼隆」て誰?プロフィールを紹介
名前 三鬼 隆(みき たかし)
生没年 1892年1月14日 – 1952年4月9日
出身地 岩手県花巻市
学歴 盛岡中学、二高、東京帝国大学(現東京大学)
職業 日本製鐵・八幡製鐵(現・新日鐵住金)社長、全国鉄鋼復興会議議長、日本鉄鋼連合会会長、経済復興会議副議長、日本経営者団体連盟会(日経連)会長
家族 父、三鬼鑑太郎は実業家・政治家、長男、三鬼彰は元新日本製鐵会長
出川哲朗の充電させてもらえませんか?|出川哲朗の大伯父「三鬼隆」の経歴を紹介
盛岡中学、二高、東京帝国大学(現東京大学)卒業後、1918年に田中鉱山株式会社に入社し、1920年に釜石鉱業所庶務部長などを歴任。
1939年に清津製鉄所所になり、長戦時体制に向けた製鉄大合同に伴い日本製鐵が発足し、戦後1945年に日本製鐵八幡製鐵所所長に、1946年に日本製鐵社長になり、1950年に過度経済力集中排除法により日本製鐵が八幡製鐵と富士製鐵等に分割されたのに伴い八幡製鐵初代社長となります。
1947年に経済安定本部顧問となり、全国鉄鋼復興会議議長、日本鉄鋼連合会会長など業界活動や、経済復興会議副議長、日本経営者団体連盟会(日経連)第2代会長として財界活動も歴任し、和の精神の経営者とされます。
1952年(昭和27年)4月9日、日航機もく星号墜落事故で遭難死しました。
人物
学生時代、スポーツをやりすぎ、二高の受験に失敗して一年浪人し、早稲田予備校に通ってましたが、野球は続け、二高では野球部で第一期黄金時代を築きます。
1913年(大正2年)9月、東京帝国大学(現東京大学)に進んだが、花札や芸者遊び、三味線や小唄・踊りなどに金をかけたため、洋服類を質に入れることも再三だったようです。
質屋の主人とは、八幡製鉄社長になっても交際があり、芸能面の経験は、後年、実業界の重鎮となる社交性を身につけるのに役だったといいます。
日本製鐵社長時代の直属の部下・永野重雄を育てたことが大きな功績として挙げられます。
出川哲朗の充電させてもらえませんか?|出川哲朗の大伯父「三鬼隆」の銅像の場所を紹介
場所は岩手県釜石市昭和園グラウンドにありましたが、今はグラウンドに隣接する新日鉄住金釜石製鉄所の接客施設「楽山荘」の近くに移設されています。
興味があったら訪れてみてはいかがでしょうか?
・・・銅像というよりは石像だと思います。
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