炎の体育会TV|ファン投票1位マスクマンの名前、経歴を紹介|1/4
今日放送の炎の体育会TVにて日本一3回のマスクマンが出演します。
一体どんな人なんでしょう、皆さん気になりますよね?
そこで今回は「炎の体育会TV|オールスターファン投票1位のマスクマンの名前、年齢、経歴、現在を紹介」について紹介して行きたいと思います。
炎の体育会TV|ファン投票1位マスクマンの名前を紹介
今回のマスクマンについて、動画や告知の内容から事前にわかる情報は下記のとおりです。
ホームラン総数1151本
伝説のプレミアスラッガーが一夜限りの大集結
※伝説ということと、シーズン真っただ中に行われていることから、現役選手・現役監督・現役コーチではないと予想できます。
ホームラン王
首位打者
WBC連覇(2006年、2009年の代表に選出)
オールスターファン投票1位&背番号36番&右打者
このことから池山隆寛さんは有力なマスクマン候補です!
通算本塁打数304本で、1989年と1991年にオールスターファン投票1位になった右打者で、背番号36番を着けています。
炎の体育会TV|ファン投票1位マスクマンの年齢、プロフィールを紹介
出身地 兵庫県尼崎市
生年月日 1965年12月17日(54歳)
身長
体重 183 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手、三塁手
プロ入り 1983年 ドラフト2位
初出場 1984年8月9日
最終出場 2002年10月17日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
尼崎市立尼崎高等学校
ヤクルトスワローズ (1984 – 2002)
コーチ歴
東北楽天ゴールデンイーグルス (2006 – 2009)
東京ヤクルトスワローズ (2011 – 2015)
東北楽天ゴールデンイーグルス (2016 – 2018)
東京ヤクルトスワローズ (2020 – )
炎の体育会TV|ファン投票1位マスクマンの経歴を紹介
兵庫県尼崎市出身。市立尼崎高校では三塁手、三番打者として1983年第65回全国選手権に出場。2回戦(初戦)では、延長10回の熱戦で加茂川重治投手のいた茨城東高に勝って3回戦に進むが、エース山田武史を擁する久留米商に9回逆転サヨナラ負けを喫する[4]。1983年度ドラフト会議にてヤクルトスワローズから2位指名を受けて入団する。
現役時代
背番号は36。入団2年目より代打、守備固めで一軍で出場、関根潤三が監督に就任した1987年には、前年までレギュラー遊撃手だった水谷新太郎がシーズン全休となったため、桜井伸一とのポジション争いを制してレギュラー遊撃手に定着。当初は八番打者であったが、水谷が復帰した翌1988年もレギュラー起用され、持ち前の長打力で同年から5年連続で30本塁打を記録した。1990年には打率.303・31本塁打・97打点という記録を残し、遊撃手としては史上初の「3割30本」を達成した[注 1]。同年8月23日の中日戦ではサイクル安打も達成した。1992年からは背番号を1に変更した。しかし、1993年は故障や頭部死球による影響もあって、108試合の出場にとどまり、連続30本塁打がストップ。以降も、頭部死球の恐怖心が拭えず、打撃は消極的になり、20本塁打に届かなくなった。また、長らく遊撃というポジションを任されてきたが、1996年からはアキレス腱痛に悩まされ始め、宮本慎也の台頭もあって1997年から三塁手へ転向する(しかし、翌年の1998年に宮本が脱税事件の関係で開幕から出場できなかった事もあり開幕から暫くは遊撃手で出場をした)。2000年からは岩村明憲へ三塁のポジションを譲り、二塁手や外野手として先発出場したがレギュラー定着はできず代打を務めることが多くなった。2001年には背番号1が岩村に渡り、自身は前年に入団時の36に戻した。翌2002年に現役を引退した。
引退試合
2002年10月17日、明治神宮球場での広島東洋カープ戦で引退試合が行われた[3]。45000人の満員の大観衆で埋まり、「3番・遊撃手」で先発出場(アキレス腱痛で途中からは一塁に回った)。打撃では5打数1安打で、8回には現役最後の安打となる左中間二塁打を放ち、守備でも4回に遊撃、延長10回には一塁でもファインプレーを披露した[3]。試合は1-1の同点で迎えた10回表に広島が1点を勝ち越したが、その裏ヤクルトは「池山にもう一度打順を回そう」と、飯田哲也がセーフティバントを試み一塁へヘッドスライディング、続く稲葉篤紀が犠打で繋いで、2死二塁の局面、つまり本塁打が出れば逆転サヨナラとなる場面で池山に打順が回った。ファンが代名詞のフルスイングを求めて「池山コール」を送る中で、池山は長谷川昌幸が投じた球速150km超の直球に1球目、2球目と続けて空振り。3球目、152kmの直球に対して、代名詞のフルスイングで空振り三振に終わり、1-2で試合は終了した。三振をするときの池山は、「右膝が曲がらない」状態であったといい、試合終了後はまともに歩ける状態ではなく、足を引きずりながらマウンドに歩み寄って長谷川らと握手を交わした[3]。
試合後には引退セレモニーが行われ、引退挨拶で「今日まで19年、多くの応援を頂いた。こんなに幸せな男はいません。これから第二の人生の打席に入りますが、必ず皆様の前に戻ってきます」とメッセージを送り、最後に自身が好きな言葉である「夢ありがとう」を叫んだ。また同年急逝した、ヤクルトスワローズ元応援団長の岡田正泰への感謝の言葉を述べ、スタンドを埋めたファンの涙を誘う場面もあった。なお夫人は、引退の意向を告げられた際に「死ぬ思いで頑張ってきたのを見てきましたから」と振り返っている[3]。
Wikipediaより抜粋
炎の体育会TV|ファン投票1位マスクマンの現在を紹介
引退後
2003年から2005年まではフジテレビ(2004年まで)・ニッポン放送の野球解説者およびサンケイスポーツの野球評論家を務めた。
2006年からはヤクルト時代の恩師である野村克也監督の下で東北楽天ゴールデンイーグルス一軍打撃コーチを務め、2009年に退任するまでに首位打者2人(2008年のリック・ショート、2009年の鉄平)、本塁打王1人(2007年の山崎武司)を輩出した。山崎は「池山さんならヤクルト時代から野村克也監督のID野球が染みついているからバッティング、データ面でも参考になりました」と著書に記している。
2010年はデイリースポーツの野球評論家を務めた。2011年には古巣であるヤクルトへ復帰し、翌2012年までは二軍打撃コーチを、2013年は一軍打撃コーチを務めた。2014年には再び二軍打撃コーチを務め、2015年には二軍野手総合コーチを務めた。
同年10月にヤクルト退団を発表した直後に、7年ぶりに楽天へ復帰することが決定し、同年11月の秋季キャンプから楽天の一軍打撃コーチを務めた。2017年に一軍チーフコーチを務め、2018年には二軍監督を務め、同年10月5日に来季の契約をしないことを通知された。2019年からは再びデイリースポーツ評論家に復帰する。また、2012年12月1日から2015年3月31日までの委嘱期間で駿河台大学の客員教授を務め、当初の任期を延長する形で2015年4月1日から2018年3月31日までの委嘱期間で再び駿河台大学の客員教授を務めた。現在は東京都文京区にてクラスター水やサプリメントの製造・販売などを行っているグローブサイエンス株式会社でスポーツ生理学・整体部門の顧問(アドバイザー)も務めている。
2019年10月3日、同日付でヤクルトの二軍監督に就任したことが球団から発表された
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