誰も知らない明石家さんま|さんまの師匠「笑福亭松之助」て誰?本名、年齢、経歴、現在を紹介|12/1

今日放送の誰も知らない明石家さんまにて明石家さんまの師匠「笑福亭松之助」が出演します。

一体どんな人なんでしょう、皆さん気になりますよね?

そこで今回は「誰も知らない明石家さんま|明石家さんまの師匠「笑福亭松之助」て誰?本名、年齢、経歴、現在を紹介」について紹介していきたいと思います。

誰も知らない明石家さんま|明石家さんまの師匠「笑福亭松之助」て誰?本名、年齢、プロフィールを紹介

本名
明石徳三(あかしとくぞう)

生年月日
1925年8月6日

没年月日
2019年2月22日(93歳没)

出生地
兵庫県神戸市湊西区

死没地
兵庫県西宮市

師匠
5代目笑福亭松鶴

弟子
明石家さんま

出囃子
『新曲浦島』

活動期間
1948年 – 2019年

活動内容
上方落語
軽演劇

家族
明石家のんき(長男)
パーポ明石(次男)

所属
吉本興業

主な作品
『テレビアラカルト』

受賞歴
1999年 大阪市市民表彰文化功労
日本マスターズ水泳協会短水路大阪大会100m自由形1位
1994年 日本マスターズ水泳協会短水路大阪大会200m自由形1位
2010年 ベストスイマー賞

備考
上方落語協会会員(1957年 – 退会時期不詳)

誰も知らない明石家さんま|明石家さんまの師匠「笑福亭松之助」の経歴、現在を紹介

兵庫県神戸市湊西区(のちの兵庫区)で、父・徳松(とくまつ)と母・ちょうのあいだに、長男として生まれる[4]。父親は俗に「手伝い職(てったいしょく)」と呼ばれる建築作業の補助的な部分を担当する職人だった[10]。母親は髪結いだった[11]。橘尋常小学校1、2年生の頃、同級生の家に大量にあった初代桂春團治のレコードを聞かせてもらったのが、落語の面白さを知ったきっかけだったという[11]。

橘尋常高等小学校卒業後の1940年4月[4]、徳三は「養成工として[14]」三菱電機神戸製作所へ入社。戦争が激化しつつあったため、入社と同時に徴用工の扱い[14]になり、また中等学校にあたる、三菱電機の幹部養成校であった神戸三菱電機青年学校の生徒[14]となる。

ある時、徳三を「ニュース館」に誘った友人が次に「余興屋」(機材のレンタルを兼業したプロモーターのような事業)のアルバイトを紹介した[15]。この頃徳三は奇術に凝っており、「余興屋」の社長が奇術師のジャグラー都一を紹介しかけたが、空襲の激化のため弟子入りの話が立ち消えになった[15]。徳三は徴兵適齢期であり、健康であったにも関わらず、終戦にいたるまで「どういうわけか、召集令状がこなんだ(引用注=来なかった)[15]」。一家は徳島県の池田にあった姉宅への疎開をへて、終戦を尼崎市で迎えた[16]。

芸界入り
終戦後徳三は、日雇いの土木作業に従事していたが、ある時「好きなことして生きてやろ[16]」と思い、「死んだときに新聞に名前が出る(略)ちょっとでも人に知ってもらえる[16]」として芸人になることを思い立った。

 

入門わずか12日後の6月19日に、徳三は初舞台を踏んだ。寺田町の大阪市交通局寮[4]で、本名のままで[18]『寄合酒』を演じた。徳三は師匠の家に住み込んだり通ったりすることなく、戎橋松竹の楽屋に通って弟子修行をおこなった[17]。入門半年後、5代目から、「この名前やったら続くやろ」と、光鶴の前名だった「松之助」を与えられる[18]。1950年1月1日の京都祇園会館での高座をへて、11日の京都富貴亭が寄席での正式デビューとなった[4]。

同年7月に5代目が死去。松之助は5代目の妻で下座囃子の見波よしとともに、4代目桂米團治の自宅2階に1年ほど寄寓する[20]。

1952年3月から1956年1月にかけ、阪急東宝グループの小林一三の発案で、宝塚第二劇場において「宝塚若手落語会」が開催された。

喜劇役者としての活躍
小林一三は、上述の落語会に先立つ1950年に、「宝塚新芸道場」という様々なジャンルの芸能人を集めた、バラエティーショーのためのグループを旗揚げしていた。翌年、拠点を宝塚映画劇場に移し、「宝塚新芸座」という軽演劇の劇団に模様替えさせた。松之助はやがて新芸座の正式な座員となり、喜劇役者の道を歩んでいく。

1953年4月、新芸座の人気演目から中継番組となった『漫才学校』(ABCラジオ)が開始され、松之助は番組のヒットとともに人気タレントとなった[4]。

松之助は1958年、『漫才学校』のヒット以降座長格になっていたミヤコ蝶々・南都雄二の退団を追うように新芸座を去り[22]、翌年4月[4]、永田キング門下の元芸人で興行師の北村ハッピーの紹介で吉本興業と契約する。

 

1961年4月[4]、松竹芸能が『松竹爆笑コメディ劇場』旗揚げのため、松之助の引き抜きを図り、松之助は誘いに応じて松竹に移籍した[27]。この時期に2代目露乃五郎、3代目桂米紫、4代目桂文紅、3代目笑福亭仁鶴とともに「実験寄席」を主宰し、高座の左右に置いたスピーカーから効果音を出す、当時の洋画を落語にして演じるなどの演出を試み、若い観客を増やした[30]。

吉本復帰以降
1967年3月、八田竹男に呼び戻され、吉本に復帰。新喜劇の台本執筆をしばらく担当したほか、芸人たちと幕間のコントを演じた。

1970年代以降、テレビのCMや番組の内容をこき下ろす漫談調の新作落語『テレビアラカルト』(別名『仮面ライダー』『バカボン』)で落語家としての人気を得た。

俳優としては、映画やテレビドラマの出演多数(後述)。1996年6月から9ヶ月間、ニュース番組『ニュースステーション』(テレビ朝日系)のコメンテーターを担当していた[4]。

2000年1月、4代目林家染丸とともに若手の勉強会『落語はやらせ隊』の顧問となる[4]。

2009年6月には、若手に交じって賞レース「S-1バトル」に挑戦した[35]。2016年3月31日、ヨシモトブックスより初の著書『草や木のように生きられたら』を出版した[36]。

2019年2月22日、老衰のため、兵庫県西宮市の病院で死去。93歳没。

Wikipediaより抜粋

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Posted by yuukibaron