林先生の初耳学|パリコレ学の特別講師・山本寛斎って誰?経歴、現在を紹介|8/4
今日の林先生の初耳学の「パリコレ学」のコーナーにてパリコレ学の特別講師・山本寛斎が出演します。
あまり名前を聞かない方ですね。皆さん気になりますよね?
そこで今回は「林先生の初耳学|パリコレ学の特別講師・山本寛斎って誰?経歴、現在を紹介」について紹介していきたいと思います。
林先生の初耳学|パリコレ学の特別講師・山本寛斎って誰?プロフィールを紹介
名前 山本寛斎(やまもと かんさい、本名の読み:やまもと のぶよし)
生年月日: 1944年2月8日 (年齢 75歳)
生まれ: 神奈川県 横浜市
子供: 山本 未來
映画: 青の炎、 Abordage
両親: 津吹甲子、 山本一男
兄弟姉妹: 伊勢谷 友介、 山本斎彦
著名な実績 ファッションデザイナー
イベントプロデューサー
受賞 第21回「装苑賞」
「ファッション・エディターズ・クラブ賞」
第7回「日本イベント大賞・審査員特別賞」
第7回「東京クリエイション大賞・国際賞」
第21回「民俗衣装文化功労者・国際文化大賞」
2004年「ベストジーニスト賞」
林先生の初耳学|パリコレ学の特別講師・山本寛斎の経歴、現在を紹介
幼少期に両親が離婚、3人兄弟で父方に引き取られ高知県に移る。しかし父親の育児放棄により児童相談所に収容される。その後、父に引き取られ、父方の祖母がいた岐阜市に落ち着く。この間、高知や大阪などで10数回の転校を繰り返す。父が洋服縫製業を始め、寛斎も縫製の手伝いをするようになった。そのうちに中学の友人から制服の改造を頼まれ、中学生にしてミシンを踏むようになり、のちにお針子を目指すようになった。そのきっかけとなったのが、映画『太陽がいっぱい』のファッションセンスに惹かれたからであった。また、応援団長となり、さまざまな応援の振り付けを考えるようになった。
高校へ通う折、建築科に通いたかったもののその学校にはなく、建築科と課程が同じだろうと思って土木建築科に通った。実際に通ってみると、建築の基礎となる土木工事に関するものが中心とする課程で、かつ現場では賄いのおばさんしかいなかったので、挫折する経験をした。
ある時、電信棒に貼ってあった第2回日本アマチュアシャンソンコンクールのポスターを見て、これに応募。オクターブ違いの「愛の讃歌」で出場するも結果は鐘一つだった。この時の優勝者が加藤登紀子で、のちに所属事務所との縁で彼女と一緒に仕事することになり、「あの時寛斎さんが受からなくてよかったね。だから今、私たちの舞台に来て、挨拶ができるようになりました。」と感謝されており、以後親しい友人となっている。
大学進学のため、上京。横浜で洋裁教室をしていた実母と再会し、ここで装苑賞の存在を知り応募に至る。その後コシノジュンコ、細野久などのデザイナーの下で働いた後、1971年に独立して、株式会社「やまもと寛斎」を設立した。同年、ロンドンで、日本人初となるコレクション 『Kansai in London』を実施した。1973年には、デビッド・ボウイのステージ衣装も手がけ、1975年にはパリで既製服のコレクションを発表した。
また、山本は2010年に開業した日本の京成電鉄・成田スカイアクセスの新AE形の車輌デザインを担当したが、車体色の選定は候補の7色を直接車両に塗って行ったという
wikipediaより抜粋
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