何だコレ!?×林修ドリル|京都の養源院に残された「血に染まった天井」場所は?家康が大切にした理由は?伏見城の戦いて何?|9/25
今日放送の何だコレ!?×林修ドリルの「なんだこれミステリー」のコーナーにて京都の養源院に残された「血に染まった天井」血天井が紹介されます。
いったい何なのか、皆さん気になりますよね?
そこで今回は「何だコレ!?×林修ドリル|京都の養源院に残された「血に染まった天井」場所は?家康が大切にした理由は?伏見城の戦いて何?」について紹介していきたいと思います。
何だコレ!?×林修ドリル|京都の養源院に残された「血に染まった天井」て何?場所は?
場所は京都府京都市東山区三十三間堂廻り町656にあります。
文禄3年(1594年)に豊臣秀吉の側室・淀殿が父・浅井長政、祖父浅井久政らの二十一回忌の供養のために秀吉に願って創建した浅井氏の菩提寺、開山は浅井氏の庶流にあたる比叡山の僧成伯法印(伝・長政弟)です。
元和2年(1616年)5月7日、2代将軍徳川秀忠正室の崇源院(江、淀殿の妹)によって、この養源院で開基である淀殿と豊臣秀頼の菩提が弔われました。
元和5年(1619年)、火災により焼失したが、元和7年(1621年)、崇源院の願により再興された。以後、徳川氏の菩提所ともなりました。
血天井は本堂・宝泉院・正伝寺・源光庵にあります。
何だコレ!?×林修ドリル|京都の養源院に残された「血に染まった天井」を家康が大切にした理由は?伏見城の戦いて何?
豊臣秀吉の死後、大老・徳川家康は上杉景勝が、豊臣政権に対して反逆を企てたとして会津征伐を決定し、慶長5年6月18日に伏見を立ち東国へ向かいました。
出陣する前に、家康は伏見城へ立ち寄りました。
その城を守る鳥居元忠は、家康が10歳の頃から仕えていた忠臣。
不自由となった足をひきずりながら家康を歓待する元忠に対して、家康は涙を流しました。
実は、家康は「おそらくもう生きた元忠とは会えないだろう」と予感していたのでした。
家康が会津に発てば、その留守を狙った石田三成が徳川方に戦を仕掛け、まず伏見城を襲ってくることを家康本人と元忠は予想していました。
家康の涙は、死を覚悟して家康のために働こうとする忠臣・鳥居元忠に感謝したものだったのです。
一方、予想通り大坂城にいた前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行は7月17日、家康が大坂城西の丸に残していた留守居役を追放して、家康に対する13か条の弾劾状を発布、これに先立つ7月15日の時点で家康の家臣鳥居元忠らが在城する伏見城は籠城を開始しており、反家康の立場を明らかにした西軍はこれに対する攻撃を準備します。
守る城側の兵力は城兵1800人に大坂城西の丸から移動してきた500人を加えた計2300人。
本格的な戦闘は19日から開始され、当初は籠城側が打って出て前田玄以、長束正家らの屋敷を焼き払うなどするが、以降は攻め手が昼夜問わず大小の鉄砲を打ちかけ、さらに22日には宇喜多秀家勢が加勢するなど圧力を強めます。
攻め手は築山(小山)を築いてそこに大筒・石火矢を設置したり、堀を埋めるなどするが十分に防御された城は容易に落ちませんでしたが、孤立した城は8月1日昼ごろに落城、鳥居元忠は鈴木孫三郎に討ち取られ、他に内藤家長父子・松平家忠・上林竹庵ら以下800人が討ち死にしました。
最後まで残った鳥居元忠ら380余名の兵は、伏見城の「中の御殿」という場所に集まって、自刃しました。
その自害の現場は凄惨を極めたといいます。
武将達の遺体は残暑の残る8月から9月中旬まで放置されていたと言われ、そのため床板にはその時に流れたおびただしい血が中まで染み付き、その後いくら洗っても、削っても、血の痕が消えることはありませんでした。
それを知った家康は、元忠をはじめ兵たちのための供養として、その床板を外し、「決して床に使ってはならぬ」と命じた上で、養源院などのいくつかのお寺の天井板として使わせました。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません