火曜エンタ|明智光秀の知られざる正義の戦い「槇島城の戦い」て何?経緯を紹介、義明のその後は?|10/8
今日放送の火曜エンタにて明智光秀の知られざる正義の戦い「槇島城の戦い」が紹介されます。
どんな経緯だったのか、皆さん気になりますよね?
そこで今回は「火曜エンタ|明智光秀の知られざる正義の戦い「槇島城の戦い」て何?経緯を紹介、義明のその後は?」について紹介していきたいと思います。
火曜エンタ|明智光秀の知られざる正義の戦い「槇島城の戦い」て何?概要を紹介
槇島城の戦い(まきしまじょうのたたかい)は、元亀4年(1573年)2月から7月にかけて行なわれた織田信長と室町幕府第15代将軍足利義昭の戦いです。
義昭が敗れて京都から追放され、室町幕府は実質的に滅亡しました。
この戦の後の7月28日、元亀から天正への改元が行なわれました。
火曜エンタ|明智光秀の知られざる正義の戦い「槇島城の戦い」の経緯を紹介
足利義昭と織田信長の対立
永禄11年(1568年)9月、織田信長に擁されて上洛し、室町幕府第15代将軍に就任した義昭は当初は信長と協調関係にあったが、将軍権力の抑制を図る信長の一連の動き(永禄12年(1569年)1月に信長が出した殿中御掟等)により次第に信長と対立するようになり、元亀3年(1572年)9月には信長から義昭に17条の意見書が突きつけられ、両者の対立は決定的になる。『信長公記』によれば、この時期には既に義昭が信長に対し反抗する意思を有していたことは明白になっていたとされている。義昭は浅井長政・朝倉義景・石山本願寺などを扇動して信長を攻撃し(信長包囲網)、元亀3年(1572年)10月、これに武田信玄が加わったが(西上作戦)、信玄の体調が悪化し、元亀4年(1573年)1月頃に武田軍の攻勢が停止している。
槇島城の戦い
1573年7月3日、義昭は勅命を破棄して再度挙兵し、二条城に三淵藤英(細川藤孝の異母兄)、伊勢貞興らの他日野輝資、高倉永相などの武家昵近衆を入れて守らせ、自らは槇島城に立て籠もった。対する信長は5日に大船が完成した機会を捉え、翌6日に大船で琵琶湖を渡って坂本城に入り、7日には京・妙覚寺に布陣して二条城を包囲。翌8日には信長の勢威を恐れて三淵藤英を除く武将や公家衆は皆退城してしまい、藤英のみが立て籠もっていた。しかし、10日藤英は柴田勝家の説得を受け入れ、二条城を開城した。
7月16日、信長は続いて槙島城へ進軍し、五ケ庄の柳山に布陣。眼前を流れる宇治川の水量はかなりのものだったが、信長は「引き伸ばすようなら自分が先陣を切る」と言い、宇治川の戦いの先例にならって二手に分かれて河を渡ることと決めた。
7月18日午前10時頃、織田軍は作戦通りに川を渡ると、しばし休息し、槙島城のある南向きに隊列を整えた。城から足軽が出てきたが、佐久間信盛・蜂屋頼隆らがこれを50ほど討ち取り、織田軍は城を包囲した。城は壁を破られて放火され、義昭は嫡男の義尋を人質として差し出して降伏した。
Wikipediaより抜粋
火曜エンタ|明智光秀の知られざる正義の戦い「槇島城の戦い」義明のその後は?
勝者である信長は敗者である義昭を殺害したり、将軍であるその地位を剥奪したりはしなかった。信長は「将軍殺し」の汚名を着ることを嫌った、などの説がある。
信長は「怨みに恩で報いる」と言ったとされるが、20日、羽柴秀吉に命じ、義昭を妹婿である三好義継の居城・河内若江城に送り届けさせた。現在の歴史学では、この際に室町幕府は(実質的に)滅亡した、と解釈されることが多い(但し前述の通り、義昭自身はなおも征夷大将軍の地位にあり、従三位の位階すらも保ったままであった)。11月16日に若江城の戦いで義継が信長に討たれた後、義昭は僅かな近臣と共に堺、次いで紀伊へと流浪・亡命し、後に毛利輝元を頼って備後鞆(鞆幕府)にまで落ち延びることとなる。
この後、信長は8月に淀城で三好三人衆の1人岩成友通を討ち取り(第二次淀古城の戦い)、越前に出陣して朝倉義景を討ち取り(一乗谷城の戦い)、直後に北近江へ向かい浅井長政も自害させた(小谷城の戦い)。武田信玄は死亡し武田軍は撤退、三好三人衆の残る2人三好長逸、三好政康は行方不明、松永久秀、本願寺の総帥たる顕如は信長と和睦し、ここに信長包囲網は瓦解した。
Wikipediaより抜粋
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