ものまねグランプリ│ジブリネタ連発のものまね芸人「コロッケ」て誰?経歴、現在を紹介│10/15
今日放送のものまねグランプリにてジブリネタ連発のものまね芸人「コロッケ」が出場します。
一体どんな方なんでしょう、皆さん気になりますよね?
そこで今回は「ものまねグランプリ│ジブリネタ連発のものまね芸人「コロッケ」て誰?経歴、現在を紹介」について紹介して行きたいと思います。
ものまねグランプリ│ジブリネタ連発のものまね芸人「コロッケ」て誰?プロフィールを紹介
本名
瀧川 広志(たきがわ ひろし)
別名義
滝川 広志
生年月日
1960年3月13日(59歳)
出身地
熊本県熊本市南区
血液型
B型
身長
170 cm
最終学歴
熊本第一工業高等学校(現・開新高等学校)卒業
出身
『お笑いスター誕生!!』
芸風
ものまね
事務所
ファインステージ
活動時期
1980年8月-
同期
とんねるず(石橋貴明・木梨憲武)
小柳トム
近藤伸明
現在の代表番組
『ものまねグランプリ』
過去の代表番組
『ものまね王座決定戦』
『ものまねバトル』
他の活動
俳優
配偶者
あり
親族
MADOKA(長女)
琴滝川(次男)
滝川光(次女)
加藤晴彦(遠戚)
ケロッケ(姉)
弟子
三又又三
木原恵一
まっちゃま(付き人)
ものまねグランプリ│ジブリネタ連発のものまね芸人「コロッケ」の経歴、現在を紹介
デビューまで 編集
ものまねを始めたきっかけとして、本人は姉やピーターの影響を挙げている。コロッケがまだ学生だった頃、テレビのものまね番組などで、ピーターがちあきなおみなどのまねを披露していたことが後のコロッケに大きな影響を与えており、ピーターとは現在も親交が深い。他にコロッケ本人が元々、音楽好きだったこともきっかけの1つである[3]。
当初はショーパブやゲイバーなどを中心に活動[4]。熊本での素人時代、あまりの面白さに「瀧ちゃんよか!」と繁華街から声援が飛ぶ程の人気ぶりであった。このとき、一度知人の伝で上京、あるラジオ局でモノマネを披露する機会に恵まれる。このときに立ち会っていたのはタモリ・赤塚不二夫・所ジョージという面々であった。披露後、所ジョージから「君のモノマネは似ているけど面白くない」という痛烈なダメ出しを喰らい[5]、熊本に戻ったのちに一念発起し、「ビジュアルモノマネ」を誕生させることとなる。
その後再び上京し、日本テレビの『お笑いスター誕生!!』に出演。グランプリ獲得はならなかったが6週勝ち抜きで銀賞獲得、以後テレビなどでも活躍するようになる。『お笑いスター誕生!!』出演当時は、おねえ風の外見や芸風もあって本物のゲイと誤解され、楽屋で他の出演者が寄り付かないため、コロッケの周りには空間ができていたという。
『ものまね四天王』でブレイク 編集
1985年、フジテレビ『ものまね王座決定戦』の出演で一躍人気芸人となり、ものまねタレントの代名詞的存在となる。ものまね四天王の一人としてフジテレビの『ものまね珍坊』にレギュラー出演。またTBSにて自身の冠番組『そんなコロッケな!?』→『コロッケ!!噂の芸能界』も持つようになった。
しかし、木村忠寛との対立や事務所独立を巡る軋轢等から、1992年3月31日放送の『第11回爆笑!スターものまね王座決定戦スペシャル』を最後に、1993年に日本テレビ『史上最高そっくり大賞』(後の『ものまねバトル』)へ移ることとなった(同じく『ものまね王座決定戦』のレギュラー出演者であった岩本恭生や篠塚満由美、さらに司会の研ナオコまでも日本テレビに移動したのはこの時の騒動のためである)。木村との対立が原因で『ものまね王座決定戦』だけではなく、フジテレビ系全ての番組にしばらく出演しなくなった。
グッチ裕三は、コロッケがフジに出なくなった理由を尋ねられると、「言えねー!」とコメントしていた。ただし、その後も映像はフジテレビで使われており、且つ2010年頃から『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』に頻繁に出演し、そこでモノマネを披露することが多かった。同年6月14日放送分では、芸能生活30周年と題して、松山千春の「長い夜」を往年のパフォーマンスを交えながら熱唱した。また対立していた木村とは、『ものまね四天王 オリジナルムービー ひょうたん』の特典映像で四天王と共演している。
コロッケは『ものまね王座決定戦』を降板した当時の心境をこう振り返っている。「自分のパフォーマンスができないという、いら立ちもあった。当時、出演者1人に与えられていた時間は、わずか1分半。僕のダンスとか取り入れたネタは、4〜5分かかり、どうやっても収まらない。しかも、出番1回で1人のものまねしかダメとなると、身動きがとれません」、「本番になった途端、3人も4人もネタを入れたりして。すると、番組スタッフの方から、凄い怒鳴られまくって…」、「やりたいようにできなくても、我慢していれば、とりあえず生活は安泰だろう。しかし、このままぬるま湯につかっていたら、もう冷めるしかない。だったら、自分で湯を沸かせるところを探すべきじゃないか。もう一度、熱い湯に入るには、一度、このぬるま湯を出るしかない。僕は頑固な方で、一回こうだと思ってしまうと、もう同じ気持ちではできないんです」[6]。
その後 編集
1980年代後半、美川憲一のものまねが茶の間に大受けした。美川は1970年代後半以後から人気が低迷し、1984年に大麻事件を起こしてからは表舞台から消えていたが、1989年の『新春特番!オールスター爆笑ものまね紅白歌合戦』にご本人として登場したことから人気が復活。以来、コロッケを「芸能界に帰してくれた恩人」として感謝しており、再び売れっ子となった現在でも芸能界の後輩としてコロッケを可愛がっている。また1991年、NHK『第42回NHK紅白歌合戦』に美川が復活出場した際にもコロッケはものまねで登場し、一緒に「さそり座の女」を歌った。なお、美川自身が無名時代のコロッケに自分もレパートリーに入れてと依頼をしたのがキッカケ。
2005年、スティーヴン・セガール主演の映画『イントゥ・ザ・サン』で、ナイトクラブのコメディアン役でハリウッド映画初出演。
2009年7月29日の舞台座長公演の記者会見で、中学生のころから真珠腫性中耳炎による聴力障害で右耳の聴力をほぼ失っていることを告白。元は7歳の頃にプールで耳に水が入り中耳炎になったことが原因である。当時病院で治療したが、数年後に再発した際、母子家庭で生活が厳しかったため母に言い出せずにそのまま放置、さらに膿んでしまって耳から悪臭が漂い、学校でいじめに遭うが、母に迷惑を掛けまいと黙っていた。だが14歳の時に耳に激痛が走り、聴力を失うに至ってしまった。会見では「この障害で骨伝導で音を聴くようになったことが逆に音に対する感覚に敏感となり、現在の芸風確立につながっている。またこれが芸人を目指すきっかけとなった」と語っている[7]。
2010年の芸能生活30周年記念イベントでは、全モノマネレパートリーの本人がゲスト出演を果たした。これは当人も知らされていなかったという。
他歌手の声帯模写ではなく、自身の歌い方による歌手活動も行っている。
2016年11月より2017年3月まで、熊本市電の車内放送をモノマネで行っていた(一部の停留所のみ)。Wikipediaより抜粋
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