プレバト!|初出演の「九重龍二」は千代大海?本名、年齢、経歴、現在を紹介|11/28

11月28日放送のプレバト!にて初出演の「九重龍二」はかつての千代大海です。

一体どんな人なんでしょう、皆さん気になりますよね?

そこで今回は「プレバト!|初出演の「九重龍二」て誰?千代大海との関係は?本名、年齢、経歴、現在を紹介」について紹介して行きたいと思います。

プレバト!|初出演の「九重龍二」て誰?千代大海との関係は?本名、年齢、プロフィールを紹介

四股名 千代大海 龍二

本名 須藤 龍二
廣嶋 龍二(旧姓)

愛称 角界の番長
大分の龍二
ツッパリ大関

生年月日 1976年4月29日(43歳)

出身 大分県大分市(出生地は北海道千歳市)

身長 181cm

体重 163kg

BMI 49.75

所属部屋 九重部屋

得意技 突き、押し

成績

現在の番付 引退

最高位 東大関

生涯戦歴 771勝528敗115休(104場所)

幕内戦歴 597勝402敗115休(75場所)

優勝 幕内最高優勝3回
十両優勝2回
三段目優勝1回
序ノ口優勝1回

賞 殊勲賞1回
敢闘賞1回
技能賞3回

データ

初土俵 1992年11月場所

入幕 1997年9月場所

引退 2010年1月場所

引退後 年寄・佐ノ山→九重

趣味 音楽鑑賞、インターネット

備考 金星1個(貴乃花1個)

プレバト!|初出演の「九重龍二」の経歴、現在を紹介

子供の頃から巨漢で、当時のあだ名は「ブッチャー」。しかし運動好きで学校から帰ると毎日のように近くの海岸で友達とドッジボールをしていた。中学校時代は大変な悪童として有名になり、2桁人数の高校生相手に単身で喧嘩して勝つなどの武勇伝を轟かせ、大分県最大で九州でも1、2を争う勢力の暴走族「十二単」を率いていて大分の龍二の名を九州全土に轟かせ、大分県警内でも有名になる。佐賀県出身で同年代のはなわ曰く「大分の龍二と言えば僕でも知っている位の凄く有名な人だった」。ただ、不良少年(ヤンキー)ではあったものの、柔道を習っていたこともあり目上の人間には礼儀正しく、先生の言うことは素直に聞き、弱い者いじめもしなかったとされる。また、卒業式では涙を見せる場面もあった。

小学校5年時に、競技を始めてからわずか1年のキャリアで柔道の全国大会で3位入賞、中学3年時には年齢を偽って参加した極真空手の九州大会で3位入賞するなど、格闘センスは抜群であった。空手の得意技はローキックと掌底。その他、中学校時代に市内の相撲大会に出場し優勝を果たしたが、決勝戦の相手がパンクブーブーの佐藤哲夫であった。

大分東明高等学校を担任の推薦で受験するも不合格。中学卒業後は一時鳶職に就くが、母親を安心させたいと大相撲入りを決意する。そして、どうせなら最も強い人の弟子になろうと、丸刈りの髪型にしたうえで九重部屋の門を叩いたという。

角界入り
1992年(平成4年)11月場所に初土俵。千代大海の四股名は、母が大分の「大」と北海道の「海」を合わせて「大海」として考案した。『大相撲』1999年3月号の特集『千代大海物語』によると根性が備わっているとともに実に素直で、模範的な弟子であったという。

そして関脇4場所目の1999年(平成11年)1月場所千秋楽、本割で横綱若乃花に勝利し両者13勝2敗の優勝決定戦にもつれ込む。さらにその優勝決定戦でも若乃花に連勝を果たして、念願の幕内初優勝を成し遂げた。優勝決定戦で勝利した内容が高く評価されて甘めながらも場所後に大関に推挙された。初優勝後、故郷の大分で優勝パレードが行われ、この時、パレードを先導した白バイの警官が「かつて追い掛け回した奴を今は先導するようになった」と語った。

大関時代
千代大海の大関昇進により、若乃花と貴乃花に次ぐ新しい時代のヒーローとして期待された。しかし新大関の1999年(平成11年)3月場所は、初日から3連敗を喫するなど不調で星が伸びず、さらに10日目の武蔵丸との取り組み中に、武蔵丸の頭突きが鼻に当たって鼻骨を折ってしまい、鼻血を流しながらしばらく立ち上がれず、途中休場する羽目になってしまった。

その後も怪我や体調不良などでふるわない場所もあったものの、概ね10勝から11勝を挙げ、安定した成績を残していた。しかし2001年1月場所などは2日目までに当時の5大関が合計8敗を喫し、4日目で、5人合わせて早くも10敗となるなど大関陣全体が不甲斐ない状況にあったため、当時の審判副部長であった九重が激怒。2場所連続休場明けだった2002年1月場所は、初日から新大関の栃東と共に9連勝。13勝2敗同士の優勝決定戦にもつれ込む。だがその決定戦では栃東の立合いの変化で突き落としに又も敗北、逆転で惜しくも優勝を逃してしまう。

2003年3月場所は公傷休場明けであったが、千秋楽結びの一番にこの場所新横綱の朝青龍と対戦し、押し出しで破って12勝3敗の成績で、4場所ぶり3回目の幕内優勝を果たしたが、これが千代大海自身最後の優勝となった

2005年この年は1月場所、5月場所、9月場所において角番となり、当時の史上最多記録に並ぶ8度目の角番となる。7月場所には左膝側副靱帯損傷のため9日目から途中休場している。

2006年7月場所には大関在位45場所となり、元大関・北天佑を抜いて歴代単独2位となる。7日目の露鵬戦では勝ったものの、勝負決着後の土俵下で露鵬とにらみ合い、口論となった。千代大海は自ら北の湖理事長の所へ行き謝罪したものの、厳重注意を受けた。

2007年は存在感を見せた1年となった。5月場所12日目にはこれまで相性の悪かった横綱朝青龍に押し出しで完勝し2敗を守るなど優勝争いを繰り広げ、終盤3連敗したが10勝5敗の成績を挙げた。

2008年1月場所は前場所の右肘が殆ど回復していなかった影響により、初日からの皆勤7連敗を喫した(8日目以降は休場)。

大関に昇進してから丁度丸10年が経過、節目の大関在位60場所目を迎えた2009年1月場所は、8勝7敗で辛くも勝ち越した。

2009年の5月場所では12日目で5勝7敗、更に左足太もも肉離れという絶望的な状況に追い込まれたが、その後大関琴光喜と魁皇、関脇把瑠都に対し3連勝をし、8勝7敗で13度目の角番を脱出した。

2009年11月場所では、初日に時天空を叩き込み、2日目も鶴竜を押し出して2連勝スタート(この鶴竜戦が現役最後の白星となった)するも3日目からは8連敗を喫する。10日目の対朝青龍戦で立合い千代大海が先に突っ張るも、朝青龍の吊り出しにより敗北。2場所連続負け越しとなり、65場所続いた大関の地位(当時歴代1位、現在魁皇と並び1位タイ)からついに関脇へ陥落が決まってしまった。

2010年1月場所は西関脇の地位に置かれ、大関特例復帰が叶わなければ引退する不退転の覚悟で臨んだが、初日から3連敗となった。その日、魁皇戦のVTRを見た千代大海は引退の潮時を悟り、残りの取組で10番勝つことは難しいと判断し、この一番を最後に翌4日目の1月13日午前、現役引退を表明した(4日目の把瑠都戦は不戦敗)。

現役引退

引退後は、2001年に取得していた年寄名跡の「佐ノ山」を襲名すると共に、九重部屋付の親方として後進の指導に当たっている[4]。引退相撲・断髪式は、2010年9月場所後の10月2日に両国国技館で行われ、358人が髷にハサミを入れた。「泣かないと思って頑張ったんですが、こらえ切れずに涙が出た。皆さんのおかげで、素晴らしい断髪式になりました」と述べた[20]。止め鋏の前には、大相撲史上初となった1999年1月千秋楽の優勝決定戦での取り直しの一番、横綱若乃花との取組の実況をアナウンサーが再現した。その際に「千代大海と声をかけるのは今日が最後。皆さん、千代大海と呼びましょう」と言って場内が大きな千代大海コールに包まれると、千代大海は堪えきれずに大粒の涙を流していた。

年寄として
佐ノ山親方となってから出演した2012年1月場所12日目の『どすこいFM』では、引退後の体重の変化について「一番重かった時が本場所中じゃない時が162kg。本場所中は158kg やめてから体重が30〜40kg落ちた。」と語っていた。

2012年2月1日に日本相撲協会の委員待遇年寄から委員へ昇格し、それまでの広報部(記者クラブ担当)から審判部、指導普及部への異動も合わせて発表されたため、本場所では観戦客が勝負審判として土俵溜まりに座る佐ノ山親方の職務姿を確認できるようになっている。

2015年に13代九重が膵臓がん手術を受け[21]、療養する状況となったこともあって2016年に入ってから佐ノ山が師匠代行として部屋の稽古を一人で指導するようになった[22]。

2016年7月31日、師匠13代九重(元横綱・千代の富士)が膵臓がんにより61歳で逝去その2日後の8月2日付で、14代九重を襲名、九重部屋を継承した。

2017年1月からは東京新聞スポーツ面にて相撲に関するコラム「九重龍二の千代魂」の執筆を開始。師匠である先代九重親方が場所期間中連載していたコラム「ウルフの目」から実質的に引き継いだもので、今後不定期掲載されることになっている。

九重部屋継承後は先代からの弟子である千代ノ皇が新入幕、千代の海が新十両にそれぞれ昇進している。

Wikipediaより抜粋

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Posted by yuukibaron