鉄腕DASH│DASH反射炉のモデルとなった世界遺産の「韮山反射炉」て何?場所は?歴史は?口コミは?│7/28

7/28の鉄腕DASHでしばらく話題に上がらなかったDASH反射炉がついに完成します。

そのDASH反射炉、実はモデルが存在します。皆さん気になりますよね?

そこで今回、「鉄腕DASH│DASH反射炉のモデルとなった世界遺産の「韮山反射炉」って何?場所は?歴史は?口コミは?」について紹介していきたいと思います。

鉄腕DASH│DASH反射炉のモデルとなった世界遺産の「韮山反射炉」場所は?

住所は〒410-2113 静岡県伊豆の国市中260−1に有ります

伊豆長岡駅から行くのが一番近いですね。

鉄腕DASH│DASH反射炉のモデルとなった世界遺産の「韮山反射炉」って何?

韮山反射炉は、伊豆の国市中字鳴滝入に現存している反射炉の遺跡です。

日本に現存する近世の反射炉は、この韮山反射炉と萩反射炉(山口県萩市)のみであるため貴重な遺構とされています。

1922年(大正11年)3月8日に敷地も含めて国の史跡に指定されました。また、2007年(平成19年)、経済産業省により、近代化産業遺産に認定されました。

さらに2009年には、萩反射炉などと共に九州・山口の近代化産業遺産群の構成資産としてユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定リストへ掲載され、2015年には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として正式登録されました。

鉄腕DASH│DASH反射炉のモデルとなった世界遺産の「韮山反射炉」の歴史は?

1840年(天保11年)のアヘン戦争に危機感を覚えた韮山代官江川英龍は海防政策の一つとして、鉄砲を鋳造するために必要な反射炉の建設を建議した。韮山反射炉は、1853年(嘉永6年)の黒船来航を受けて、江戸幕府直営の反射炉として築造が決定された。

1853年、伊豆下田にて築造開始。翌1854年(安政元年)、下田に入港したアメリカ合衆国のマシュー・ペリー艦隊の水兵が敷地内に侵入したため、築造場所が田方郡中村字鳴滝に変更された。そのため建造当時は中村反射炉と称されている。韮山反射炉と称されるようになったのは明治以降である。1855年(安政2年)、江川英龍が死去すると、跡を継いだ息子の江川英敏が築造を進め、1857年(安政4年)に完成した。

江川英敏は、韮山反射炉を築造するにあたって、1857年、築造途中だった北炉完成のために、佐賀藩で築地反射炉・多布施反射炉の築造に携わった技師田代孫三郎・杉谷雍助以下11名を招き、技術協力を得た。

1857年から1864年まで、反射炉本体での鋳造が行われる。

1864年に閉鎖されたのち、1868年に幕府直営から江川家私営となる。 以降風化が進むが明治41年、韮山村有志が反射炉敷地を買い、陸軍省に献納したことにより、陸軍省所管となった反射炉は再工事され、翌年に落成、 以降韮山反射炉保勝会が維持・管理を行うこととなった。

鉄腕DASH│DASH反射炉のモデルとなった世界遺産の「韮山反射炉」の口コミは?

随時更新していきたいと思います。