24時間テレビ|遠藤憲一の俳優人生を変えた 3人の恩人の経歴を紹介|8/25

今日放送の24時間テレビの「遠藤憲一の俳優人生を変えた 3人の恩人」で遠藤憲一の俳優人生を変えた3人の恩人が紹介されます。

皆さん詳しいところまで気になりますよね?

そこで今回は「24時間テレビ|遠藤憲一の俳優人生を変えた 3人の恩人の経歴を紹介」について紹介していきたいと思います。

24時間テレビ|遠藤憲一の俳優人生を変えた 3人の恩人の経歴を紹介

一人目

三池崇史

生年月日 1960年8月24日(58歳)
出生地 大阪府八尾市
職業 映画監督
ジャンル ホラー、コメディ、バイオレンス
活動期間 1991年 –
配偶者 あり

幼少時代を三重県で過ごし、大阪工業大学高等学校時代はラグビーを行っていたが、入部した瞬間にレベルの違いを思い知って挫折[1]。ラグビーを断念してバイクサーキットのライセンス取得に挑んだが、走りにくい状態で前を走る人間を抜く欲求が生まれなかったため、これも断念[1]。大学へ内部進学できなくなっていた三池は横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)に進学、横浜にあった今村昌平の私塾で映画を学ぶが、大師匠の大庭秀雄が最初の授業で書いた「脚本とは芸術である」という言葉に、自分が場違いであることに気付かされてこれも挫折[1]。最終的に専門学校は卒業するがほとんど中退状態となり、横浜のディスコでアルバイトを行った[1]。専門学校2年生の時に専門学校の先輩からテレビの仕事の手伝いを頼まれ、これを引き受けた[1]。真面目に専門学校に行っている生徒は卒業制作を作っている時期ではあったため学校は先輩の依頼を一度断ったが、先輩が学校の先生に「まともに学校に行っていない生徒でもいいから紹介してくれ」と頼んだところ、その筆頭として三池の名前が挙がったというのが真相であり、学校の職員がアルバイト先のディスコまで来て依頼を持ちかけたという[1]。卒業後、ディスコのアルバイトをそのままやっていくのはなんだからと、その先輩の手伝いを行うようになった[1]。フリーの助監督として今村昌平、恩地日出夫、野田幸男、西村潔、井上梅次、舛田利雄、村川透らの現場に就いた後、1991年にビデオ映画『突風!ミニパト隊』で監督デビュー、1995年の『新宿黒社会』で初の劇場用オリジナル作品を手掛けた。以降、コメディからバイオレンス、ホラーなど多岐に渡るジャンルで制作活動を続ける。1998年に、『TIME』誌がこれから活躍が期待される非英語圏の監督として、ジョン・ウーと並び10位に選出。クエンティン・タランティーノ、イーライ・ロス、パク・チャヌクなど、海外の監督にも影響を与えた(『殺し屋1』など)。また、オマー・ロドリゲス・ロペス、フライング・ロータスなど、海外ミュージシャンにもファンが多いことでも知られる。『極道恐怖大劇場 牛頭』はVシネマとして初めてカンヌ国際映画祭に出品された。旧名は三池モバ。ジャンルを問わず「仕事は来たもん順で受ける」「映像化可能であれば、まず何でもやってみる」と公言しており、多作である。

三池のその映画制作スタイルは鮮烈な暴力描写を伴うため、しばしば論争を巻き起こすものの海外での評価は高い。2001年のトロント国際映画祭での『殺し屋1』の上映時には、エチケット袋を観客に配り、暴力描写が自分の持ち味であることをアピールした。海外での受賞は『極道戦国志 不動』でポルト国際映画祭審査員特別賞。『オーディション』でロッテルダム国際映画祭で国際批評家連盟賞とオランダジャーナリズム連盟賞。『カタクリ家の幸福』でジェルミナーレ国際ファンタスティック映画祭審査員特別賞。『牛頭』で第36回シッチェス・カタロニア国際映画祭審査員特別ビジュアルエフェクト賞など多数。フランシス・コッポラやウェイ・ワンがアジア人監督作品をプロデュースする企画に日本から参加が発表されるなど、ハリウッドからの引き合いもあったが、長期間携わる上に他の仕事に関わることを禁じる契約がある依頼は自分の気質には合わないため、断っているという。

2004年『IZO』(イゾウ)は、R-15指定。幕末時代の殺し屋・岡田以蔵をモチーフに、過去・未来を通じ、時間を超越した殺戮を繰り広げる様を描く。豪華な出演陣が話題となった。ヴェネチア国際映画祭に正式招待された。

2006年にはアメリカのケーブルテレビ局Showtimeが企画した、ホラー映画の巨匠13人によるオムニバステレビシリーズ『マスターズ・オブ・ホラー』の第1シーズンに、日本人唯一の参加を果たした。しかし、実際に三池が製作した『インプリント〜ぼっけえ、きょうてえ〜』(原作・岩井志麻子)はアメリカのテレビで最も表現規制が緩いとされる有料チャンネルの放送コードにさえ引っ掛かってしまう内容のもので、北米での放映は見送られることとなり、話題となった。また、日本では角川ヘラルド・ピクチャーズ(現・角川映画)配給で映画館公開も計画されていたが、映倫が審査を拒否したため、映倫の審査が必要ないイメージフォーラムで単館上映した。

2007年11月、米『TIME』誌の調査による「Top 25 Horror Movies(ホラー映画ベスト25)」に唯一の日本映画として『オーディション』が選出された。

2014年、第9回ローマ国際映画祭ガラ部門にて、監督作品「神さまの言うとおり」が、日本人初の「マーベリック賞」を授与される事が決定された。[2]

2015年、第6回オアハカ映画祭にて、監督作品『極道大戦争』で最優秀監督賞を受賞[3]。

好きな映画監督は黒澤明[4]、五社英雄[5]、デヴィッド・リンチ[6]、ポール・バーホーベン[6]、デヴィッド・クローネンバーグ[6]。好きな映画は『燃えよドラゴン』[7]、『スターシップ・トゥルーパーズ』[6]、『雲霧仁左衛門』[4]、『闇の狩人』[4]、『七人の侍』[4]、『座頭市シリーズ(特に1962年の第1作目)』[4]など。

最近は一般層向けの作品以外にも、漫画やアニメを原作とした作品の監督、女児向け特撮テレビドラマ「ガールズ×戦士シリーズ」(総監督)など、特定の需要に応えた作品のディレクションにも積極的に取り組んでいる。

2人目

おおすぎ れん
大杉 漣
大杉 漣
本名 大杉 孝
生年月日 1951年9月27日
没年月日 2018年2月21日(66歳没)
出身地 徳島県小松島市
死没地 千葉県
身長 178 cm
血液型 B型
職業 俳優
ジャンル 舞台・映画・テレビドラマ
活動期間 1973年 – 2018年
活動内容 俳優
著名な家族 大杉隼平(長男)[1]
事務所 ザッコ

生誕
1951年9月27日、徳島県小松島市にて、教育者の家庭で育つ。4人兄弟の末っ子[6]。母は京都の銀閣寺の傍らにあった下宿屋の娘で、父より3歳年上の姉さん女房だった。父は京都大学に在学中に、その下宿屋で生活しており、その際に仲良くなり結ばれた[7][8]。父は38歳で小松島市立小松島中学校の校長に抜擢され、徳島県立小松島西高等学校、徳島県立富岡東高等学校、徳島県立城東高等学校の校長を歴任した[6][7]。父が小松島中学校の校長をしていた縁で小松島中学校が2016年に創立70周年を迎えた際には記念講演を行ったこともある[9]。12歳の時に父が徳島県立富岡東高校に転任し、同じ敷地の茶道部と女子寄宿舎の間にあった校長官舎に引っ越す。4年間そこで暮らした[7]。したがって、小学校5年生までは小松島市立千代小学校に在籍し、小学6年生は富岡小学校、中学生時代は富岡中学校に在籍していたことになる。16歳のときに父が徳島県立城東高校に転任が決まり、一家で城東高校の官舎に引っ越す。そして、自身も徳島県立城北高等学校へ進学し、卒業する[10]。

劇団活動との出会い
1970年代に人気を呼んでいた、蜷川幸雄、寺山修司、唐十郎らの演劇に通い、1973年、雑誌『新劇』に掲載されていた太田省吾の記事に感銘を受け、太田の劇団員募集広告に応募し研修生として採用される[4]。応募するにあたり、明治大学は中退した[4]。同年6月、22歳で別役実作品『門』の「娼婦を買いに来る客A」役で舞台デビューを果たした[4]。1974年、23歳の時に太田省吾創設の転形劇場に入る[11]。台詞なしに静かに舞台を歩んで演じる「沈黙劇」を原点として[11]、舞台俳優としての本格的な活動を始め、転形劇場での活動に打ち込む。同劇場の演目『小町風伝』は岸田戯曲賞を受賞している[12]。

下積時代
1980年に新東宝映画のピンク映画『緊縛いけにえ』で映画俳優としてデビュー[4][13]。日活ロマンポルノや新東宝映画などのピンク映画に積極的に出演するようになった。

1983年、滝田洋二郎監督の『連続暴姦』では演技力が評価され、同年の「ZOOM-UP映画祭」・ピンクリボン賞主演男優賞を受賞した[4]。また、翌1984年、周防正行監督の小津映画リスペクト作品『変態家族 兄貴の嫁さん』では、当時33歳[4] の大杉が60歳超の老人役を演じ、静けさの中にも狂気をたたえた演技や風かおるとの独特の掛合いなどが評価された。その後も多数のピンク映画に出演したが、1988年の片岡修二監督の『地下鉄連続レイプ・愛人狩り』を最後にピンク映画への出演を控え、転形劇場における活動に専念した[4]。

しかし、転形劇場は1988年に解散[12]。大杉は37歳で活動基盤を失ったが、宮沢章夫作品や太田省吾作品への出演、岩松了作品における竹中直人とのコラボレーションなど、演劇界で活動を続けた。

俳優としての転機

『シン・ゴジラ』ワールドプレミアに出席する大杉漣(後列右から3人目)
1989年以降、再び映画界への進出を望んだが、希望する役を射止めることはできず、Vシネマなどに多数出演して収入を確保する生活が続いた。

40歳代に入り、種々のステップアップを図る一環として北野武監督による『ソナチネ』(1993年)のオーディションを受け、遅刻したにも関わらず合格[4][14]。とはいえ当初与えられたのは単なるやくざ事務所の電話番という、台本に台詞のない端役だったが、たけしの「全部アドリブでやって」という指示に対し、大杉が演じたヤミ金の取り立ての演技にたけしが「うめえな、この人」と感心、脚本を書き換えて役を大きくしたところ、「最後までうまくやっちゃった」という[15]。この作品での演技が転機となり、映画界において演技派の一人として知名度を得ていく[4][16]。SABU監督の『弾丸ランナー』出演の翌1997年には、同監督の『ポストマン・ブルース』でおおさか映画祭・報知映画賞を受賞。1998年-1999年にかけては、北野武監督の『HANA-BI』や、大谷健太郎監督の『アベックモンマリ』、崔洋一監督の『犬、走る DOG RACE』などにおいて実力を発揮し、1999年度の国内各映画賞の助演男優賞を多数受賞して、映画以外にもテレビドラマへの主役・主要キャストとしての出演が増加すると、その名は広く一般に認知されるようになった。

その後は、偉人群像から社会の底辺に生きる人物、公安刑事から体制破壊主義者、堅実なサラリーマンからホームレス、学校長からヤクザ、好人物から偏狭な人物、誠実な父親・夫から退廃的な不良中年、精神異常を思わせるサイコ色の強い異常人格から変態[11]・エロ系の人物まで、様々な役柄を演じ、「300の顔を持つ男[4][17]」「カメレオン」などの異名を得る。以後は、高橋伴明、中村幻児、周防正行、滝田洋二郎、黒沢清、井筒和幸、廣木隆一等のピンク映画系出身の諸監督から、北野武、SABU、鈴木俊之、磯村一路、小松隆志、三池崇史、落合正幸など、日本映画界の多くの監督作品に出演した。

若い映画製作者への協力もしていた。当時は新潟の一高校生にすぎなかった田卷源太監督による企画提案を受け、アマチュア自主製作短編映画『黒いカナリア』の主役として少ない報酬で出演したり、早稲田大学と慶應義塾大学の学生が中心となった自主制作映画『Mogera Wogura』へも出演。

映画からNHK大河ドラマ、NHK連続テレビ小説、2時間ドラマ、Vシネマ、インディーズ、ドキュメンタリーのナレーション、バラエティー番組をはじめ、アジア圏の外国映画や内外合作映画にまで、各ジャンルに出演。その本数も多く、バイプレイヤーの代表格として極めて精力的な活動を行っていた[18]。

2013年4月13日より、BSフジにて自身初の冠番組となる旅番組『大杉漣の漣ぽっ』が放送開始[19]。第1回は大杉の地元である徳島県を散策した回を放送、以後2018年に急逝するまで、約5年、60回(地上波で放送されたスペシャル版1回を含む)に亘って放送された。

2017年1月2日に日本テレビ系で放送された『新春ぐるナイ!ゴチ新メンバー超大物2名発表SP!』にて、人気コーナー「グルメチキンレース・ゴチになります!18」にレギュラー出演することが発表され、地上波バラエティ番組における初レギュラーが決定した[20]。2017年8月24日放送回では自身初[21] のピタリ賞100万円を獲得し[22]、同年9月7日放送分でもピタリ賞で1位。ゴチ史上初の2週連続ピタリ賞獲得の偉業を成し遂げた[23]。「ゴチ」メンバーに同時加入した渡辺直美からは「れんれん」と呼ばれた[24]。

死去
2018年2月20日深夜、主演ドラマ『バイプレイヤーズ〜もしも名脇役がテレ東朝ドラで無人島生活したら〜』ロケのため滞在していた千葉県富津市内のホテルで腹痛を起こし、番組関係者に付き添われてタクシーで救急病院へ搬送される[25]。到着時には既に重体となっており、総合病院への搬送も検討されたが、「治療が間に合わない」という病院側の判断で集中治療を継続[26]。その後容態が悪化し、同年2月21日午前3時53分、永眠。66歳だった。[27]死因は急性心不全[3][28]。病院に駆け付けた家族、ドラマ関係者、事務所関係者らに見守られながらの死であった[29]。

この日(20日)は終日撮影や取材を行ったが体調に変化などはなく順調に進行し[30]、終了後は共演者らでともに食事をとっていた。

葬儀・告別式は大杉本人の生前の意思により、家族・近親者のみで執り行われ[31]、4月14日にお別れの会「さらば!ゴンタクレ」が開かれた(詳細は後述)。

戒名は「優月院漣奏球孝信士ゆうげついんれんそうきゅうこうしんじ」[32][33][34]。

死後
没後の対応[35]
撮影中であった『バイプレイヤーズ』は、共演の遠藤憲一、田口トモロヲ、松重豊、光石研が「自分たちのスケジュールはどうにかするから何とか最終回までやらせてほしい」とスタッフに直談判し、撮影を続行[26]。21日に放送された第3話では冒頭で4人共同の追悼コメントが寄せられた[36]。その後、大杉の出演シーンの取り残しの部分の脚本を修正するなどして、3月7日の最終回放送まで当初予定通りのスケジュールで乗り切った。
2月22日 – テレビ朝日系『徹子の部屋』にて、当初の放送予定を変更し追悼特集として、大杉がゲスト出演した回(2000年、2005年)を再編集して放送した[37]。
2月22日 – レギュラー出演していた日本テレビ系『ぐるナイ』の「ゴチ19」第3戦(2月12日収録)が放送[38][39]。番組内では冒頭と終盤で追悼メッセージが流れ、終了時にはゴチ19出演時の顔写真も記載された[40][41][42][43][44]。
2月23日 – テレビ東京系列『所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ!』にゲスト出演。番組の終盤に顔写真と追悼メッセージが流れた[45]。
2月24日 – BS朝日にて、13:30 – 14:00に『徹子の部屋』の追悼放送(22日に地上波で放送されたものと同じ回)を放送[46])。続けて14:00 – 15:00に『ザ・インタビュー〜トップランナーの肖像〜』の大杉出演回を2年ぶり2回目の放送した(2016年3月19日放送、インタビュアー:舘野晴彦[46][47])。
2月25日 – テレビ大阪にて、大杉が出演した『夜あそびTKO〜大人の異業種交流会〜』(関西ローカル、2017年7月30日)を再放送。加えて、大杉がナレーションを務めた『天空の教室〜中国・四川省・標高3000mの希望〜』(2009年12月31日、テレビ東京系列)を再放送した[48]。
2月25日 – BSフジにて冠レギュラーの『大杉漣の漣ぽっ 〜2018年は鎌倉を歩いて運気を上げよう!〜』(2017年12月8日収録、2018年1月3日にフジテレビで放送)を放送。当初3月3日放送予定であったものを急遽繰り上げた。同番組でも冒頭と終盤で追悼メッセージが流れた[49][50]。また3月31日には、第1回放送の「徳島県を散策」の回が四国放送(JRT、日本テレビ系列)で放送された[51]。
2月25日 – 関西テレビでは16:55 – 17:25に『さんまのまんま』の大杉出演回を再放送した[52] 。
2月25日 – テレビ東京にて、出演映画『HANA-BI』の特別編集版が放送された[53][54]。
3月2日 – 日本テレビ系『アナザースカイ』ゲスト出演回放送[55]。死去1か月前に韓国・釜山を訪れた際に、「申し訳ないけど、もうちょっと生きたいなって思ってます。っていうか、僕はもうちょっとやりたいこともあるので。 66歳でも希望はいっぱいありますよ。」などと、俳優としての人生の他、自らの死についても語っていた[56]。スタジオトークの収録前に大杉が死去したため、番組冒頭で司会の今田耕司とアシスタント(当時)の中条あやみがそろって喪服姿で登場、今田が放送決定の経緯を説明した後、全編にわたってドキュメント映像で構成する形となった[56]。
3月12日 – 名古屋テレビ放送(メーテレ)にて、出演ドラマ『名古屋行き最終列車』シリーズの特別編として『大杉漣さん追悼 メ〜テレドラマ 名古屋行き最終列車〜あるラーメン屋の主人の物語〜』(14:00 – 15:23)が放送された[57]。続く翌13日(12日深夜)には放送中の『名古屋行き最終列車2018』において、大杉のシリーズ最終出演話となる第9話が放送された[57](いずれも東海3県ローカル)。プロデューサーを務める神道俊浩が追悼コメントを出した[58][59]。また、同ドラマに協力している名古屋鉄道も3月6日から13日まで、名鉄6000系電車6036編成にて大杉追悼の系統板を掲出した[60](小牧線および瀬戸線を除く[59])。
3月12日 – NHKスペシャル『メルトダウンFile.07 AI徹底分析 原発事故全記録』の再現ドラマに出演[61]。
3月14日 – 準レギュラー(衣笠藤治役)のテレビ朝日系列の『相棒 season16』最終回放送。同回出演予定で、一部の撮影を終えていたが、杉本哲太を代役として撮り直しを行った[62] 。
4月8日から4月22日までの3週に亘り、BSフジで『大杉漣の漣ぽっ』のスペシャル番組として『ありがとう大杉漣さん「大杉漣の漣ぽっ」』が放送された[63]。9月27日にDVD-BOXとして発売された[19]。
スカパー!でも、死去3日後の24日より1か月にわたり、大杉が出演した映画・テレビドラマを特集放送した[64]。
突然の訃報に番組共演者や芸能界からも悼む声が多く寄せられた[65][66][67]。
大杉の地元のサッカークラブである日本プロサッカーリーグの徳島ヴォルティスが公式サイトで大杉への追悼メッセージを発し、2月25日の2018年度J2リーグホーム開幕戦となる対ファジアーノ岡山戦(徳島県鳴門総合運動公園陸上競技場)においてスタジアムに記帳台を設置し、キックオフ前にスタジアムで大杉に対する黙祷を行い、徳島ヴォルティスの選手・関係者が喪章を着用して試合に臨んだ[68]。
大杉がCMの出演およびナレーションを担当していた各企業(スズキ、大東建託、不室屋[35])が公式サイトに追悼メッセージを掲載した。
映画『アウトレイジ 最終章』での演技が評価され、松重豊、大森南朋、ピエール瀧、金田時男と共に第27回東京スポーツ映画大賞・助演男優賞を受賞。2月25日に授賞式が行われた[69]。
10月6日には最後の主演作となった映画『教誨師』(佐向大監督)[70]、10月20日[注 1]には遺作となった映画『恋のしずく』(瀬木直貴監督)[71]が公開された。『教誨師』での演技が評価され、2019年4月8日に第28回日本映画プロフェッショナル大賞の主演男優賞に選出されている[72]。
2018年11月30日をもって所属事務所・ザッコはマネージメント業務を終了し[73]、2019年2月20日にウェブサイト『大杉漣記念館』がオープンした[74]。なお、ザッコに所属していた大杉以外の俳優の半数ほどは、同社のマネージャーが新規に開設した事務所・空に移籍した。
お別れの会「さらば!ゴンタクレ」
4月14日には、お別れの会「さらば!ゴンタクレ」が東京都青山葬儀所にて開かれ[75][76]、約1700人が参列した[77]。

最期を看取った『バイプレイヤーズ』共演の4人も揃って参列、田口トモロヲが代表して弔辞を読み、大杉と5人で過ごした時間を振り返った[32]。田口の弔辞の一部は次の通り。

ただひたすら漣さんが恋しいです。そして、寂しいです。あなたがいなくなってしまった喪失感がとんでもなく大きくて、ただただ途方に暮れています。あまりにも急に大切な親友を亡くしてしまい、呆然としています。漣さんはいったん亡くなったが何年か経てば必ず帰ってきていつもの漣さんでまた役者をやってこられたらと思います。漣さん、僕たちのところに必ず帰ってきてください。

—田口トモロヲ、「さらば!ゴンタクレ」(2018年4月14日)[32]
『僕の生きる道』(関西テレビ制作ドラマ)や『嘘の戦争』(同)などで共演歴がある草彅剛も弔辞で

「 もういなくて、ずるいですよ、本当に。なんか何度も何度も悔やんで、どうして漣さん早すぎるよって、何度も何度も問いかけて、最後はあの低い声で笑って漣さんの笑顔が残るだけなんだよね。本当にずるいよ。
またみんなで楽しいことしましょうよ。僕はやっぱりまた漣さんとお芝居したいです。ドラマとか映画とか舞台とかやりましょうよ。そしてまた漣さんが連れてってくれた海でギター持ってさ、一緒に好きな歌、歌いましょうよ。それまでしばらく待っていてくださいよ。大杉漣さん、心からご冥福をお祈りします。 」
—草彅剛(「さらば!ゴンタクレ」(2018年4月14日)[33]より)

と声を震わせ別れを惜しんだ[33]。

長男・隼平も「いかに現場に立っていたか、改めて感じました。」「父としてというより、人として本当に尊敬していました。失ってみて、あの人のことをどれだけ好きか痛感しました。」など語ったほか、所属事務所・ザッコの社長を務める妻・弘美も「“そちらでも元気にやっていて。またね!”と送りたいと思っています。」とコメントした[34]。

また、祭壇には「REN」の名前が入った徳島ヴォルティスの背番号10ユニフォームがメンバーズカード付きで飾られた[78] ほか、ファンブースには「ゴチ」で着用した制服がトップ通過およびピタリ賞の回数分のバッジ付きで展示された[79]。

遠藤昌子

後ほど更新します

芸能

Posted by yuukibaron