火曜エンタ|江戸の町を作った東京オリンピックの立役者「保科正之」の政治的手腕とは?生い立ち、登場作品を紹介|10/8

今日放送の火曜エンタにて江戸の町を作った東京オリンピックの立役者「保科正之」が紹介されます。

いったいどんな人なんでしょう、皆さん気になりますよね?

そこで今回は「火曜エンタ|江戸の町を作った東京オリンピックの立役者「保科正之」の政治的手腕とは?生い立ち、登場作品を紹介」について紹介していきたいと思います。

 

火曜エンタ|江戸の町を作った東京オリンピックの立役者「保科正之」の生い立ちを紹介

慶長16年(1611年)5月7日、第2代将軍徳川秀忠の四男(庶子)として生まれる。幼名は幸松。母は静(志津、後の浄光院)で、秀忠の乳母大姥局の侍女で北条氏旧臣・神尾栄嘉(かんお さかよし)の娘(『以貴小伝』『会津家世実記』)、もしくは武蔵国板橋郷竹村の大工の娘(『柳営婦女伝系』)である。秀忠は慶長15年(1610年)2月から3月、慶長17年(1612年)3月から4月には駿府へ赴いているほか江戸近郊で鷹狩を行っており、静の妊娠はこの間のことであると考えられている。「会津松平家譜」では江戸神田白銀の竹村次俊宅にて出生したとある。

近世武家社会においては、正室の体面・大奥の秩序維持のため侍妾は正室の許可が必要で、下級女中の場合にはしかるべき家の養女として出自を整える手続きが必要であったと考えられている[1]。また、庶子の出産は同様の事情で江戸城内で行なわれないことが通例であり、幸松の出産は武田信玄の次女である見性院に預け、そこで生まれた幸松は見性院に養育された。見性院は武田家御一門衆で甲斐国河内領主・穴山信君の正室であったが、天正10年(1582年)6月の本能寺の変に際して信君が横死し、さらに天正15年(1587年)に実子で穴山氏当主となった勝千代が死去する。徳川家康は武田家臣・秋山氏の娘で家康の側室となった於都摩の方(下山殿)を生母とする五男・万千代(武田信吉)に穴山武田氏の名跡を継がせると、見性院は万千代の養育にあたった。信吉は常陸国水戸の領主となるが、慶長8年(1603年)に病死し、これにより穴山武田家は断絶する。その後、見性院は家康・秀忠に庇護されて武蔵国足立郡大間木村に500石を拝領し、江戸城田安門内の比丘尼邸に居住していた。見性院は妹の信松尼とともに武蔵国八王子で幸松丸の養育にあたる。

正之の出生は秀忠側近の老中土井利勝や井上正就他、数名のみしか知らぬことであったという。また、「会津松平家譜」では武田氏に預けられたのは慶長18年(1613年頃)としている。また、正之が生まれた場所は静の姉婿に当たる神田白銀町の竹村助兵衛方であったともいわれる[2]。

元和3年(1617年)、見性院の縁で旧武田家臣の信濃高遠藩主保科正光が預かり、正光の子として養育される。ただしこの時、正之は正光の養子にすでに左源太という男子がいることをお供の女性が茶飲み話していたのを聞いて、母にむかって「肥州(正光)には左源太という子がいるからいかぬ」と駄々をこねて母を困らせ、母の説得でようやく高遠入りしたという[2][3]。正之は高遠城三の丸に新居を建設されて母とともに生活し、正光の家臣が守役となり、正光も在城の際には日に5、6度はご機嫌伺いをしたという[2]。正光は自らの後継者として正之を指名し、養子の左源太にも生活に不自由しないよう加増や金子を与えること、自らの存命中に秀忠と正之を父子対面させたいことを約した遺言を遺している[4]。

なお、長兄の家光が正之という弟の存在を知ったのは、鷹狩りの際に家光が身分を隠して5人ほどの供を連れて目黒の成就院という寺で休憩していた時、家光が住職に、「こんな片田舎のお寺の客殿に立派な絵を描かれているが、誰の援助か?」と聞かれたので、住職は、「保科肥後守の母上の御援助」と答えた。話の延長線上で、僧侶から「保科肥後守殿は、今の将軍家の正しき御弟だというのに、わずかな領地しかもらえず、貧しい暮らしをしているそうで、おいたわしい。我らのような賤しきものも、兄弟は仲良くするのが人の習いであると知っている。身分の高い人というのは、ずいぶんと情けがないものだ」と住職は話した。家光は「肥後守殿は今の将軍家の弟君である」と聞かされて知ったとされ、後で成就院は家光より寺領を寄進された[5][6]。後に新井白石は正之を重用した家光の行為を「善政の一齣」であると記している[7]。

寛永6年(1629年)6月、正之は兄の第3代将軍徳川家光と初対面、また次兄徳川忠長とも対面しており、忠長からは大変気に入られて、祖父・徳川家康の遺品を忠長より与えられたとしている[8]。

寛永8年(1631年)11月、幕府より幸松に「月のかわらぬうちに出府せよ」と命令が下り、重臣5名と出府、土井利勝や井上正就同席の上、「幸松儀、肥後守信州高遠藩3万石相続仰せつけられる」と上意があり、秀忠の命で幸松は、保科肥後守正之と名を改め、高遠藩藩主となり21歳で世に出た。正光の跡を継ぎ高遠藩3万石の藩主となり、正四位下左近衛中将兼肥後守に叙任。以後、会津中将と通称される。

Wikipediaより抜粋

火曜エンタ|江戸の町を作った東京オリンピックの立役者「保科正之」の政治的手腕とは?

幕政
家光の死後、遺命により甥の4代将軍家綱の輔佐役(大政参与)として幕閣の重きをなし、文治政治を推し進めた。末期養子の禁を緩和し、各藩の絶家を減らした。会津藩で既に実施していた先君への殉死の禁止を幕府の制度とした。大名証人制度の廃止を政策として打ち出した。玉川上水を開削し江戸市民の飲用水の安定供給に貢献した。

明暦3年(1657年)の明暦の大火後、焼け出された庶民を救済した。一方、大規模火災対策として主要道の道幅を6間(10.9m)から9間(16.4m)に拡幅した。また、火除け空き地として上野に広小路を設置し、両国橋を新設、芝と浅草に新堀を開削、神田川の拡張などに取り組み、江戸の防災性を向上させた。また、焼け落ちた江戸城天守の再建に際し、天守台は御影石により加賀藩主の前田綱紀(正之の娘婿)によって高さを6間に縮小して速やかに再築されたが、天守構造物については正之は「織田信長が岐阜城に築いたのが始まりであって、城の守りには必要ではない」として、天守は実用的な意味があまりなく単に遠くを見るだけのものであり、無駄な出費は避けるべきと主張した。幕府の金は前述の都市整備に宛がわれ、そのため江戸城天守は再建されず、以後、新井白石らにより再建が計画され図面や模型の作成も行われたこともあるが、江戸城天守台が天守を戴くことはなかった[注釈 3]。

この時代の幕閣(酒井忠勝、松平信綱、阿部忠秋など)たちも、正之の建言を受けて、幕政において400万両超の蓄財を背景にして福祉政策・災害救済対策・都市整備などに注力した。正之の死後には貨幣の改鋳などの経済政策の欠落があり、幕府は財政難へと陥っていった。第5代将軍となった綱吉により荻原重秀の登用など財政の再建策が講じられた。

藩政
藩政にも力を注いだ。会津に入った寛永20年の12月、留物令によって、漆・鉛・蝋・熊皮・巣鷹・女・駒・紙の8品目の藩外持ち出しを手形の有無で制限し、一方では許可なくしては伐採できない樹木として漆木を第一に挙げる[10]など、産業の育成と振興に努めた。正保4年(1647年)、諸宿駅を定める。明暦元年(1655年)に飢饉時の貧農・窮民の救済のため社倉制を創設し、一方で産子殺しを禁止した。万治3年(1660年)には、郷頭のそれまで行われていた百姓に対する恣意的な扱いを禁じた。寛文元年(1661年)には相場米買上制を始め、寛文年間には升と秤の統一を行った。藩士に対しては寛文元年、殉死を禁じた。また朱子学を藩学として奨励、好学尚武の藩風を作り上げた。90歳以上の老人には身分を問わず、終生一人扶持(1日あたり玄米5合)を支給し、日本の年金制度の始まりとされる。

稽古堂も設け、藩士の子弟教育に尽力、後の日新館となった。

同時代の水戸藩主徳川光圀、岡山藩主池田光政と並び、江戸初期の三名君と賞されている。

正之と朱子学・神道
正之は熱烈な朱子学の徒であり、それに基づく政治を行った。身分制度の固定化を確立し、幕藩体制の維持強化に努めた。山崎闇斎に強く影響を受け、神儒一致を唱えた。正之は卜部神道第55代の伝統者である[11]。

また、朱子学の徒であったがために、正之は他の学問を弾圧した。岡山藩主・池田光政は陽明学者である熊沢蕃山を招聘していたが、藩政への積極的な参画を避けた。加賀藩主・前田綱紀が朱子学以外の書物も収集していたことに苦言を呈していた。また、儒学者の山鹿素行は朱子学を批判したため赤穂藩に配流された。

Wikipediaより抜粋

火曜エンタ|江戸の町を作った東京オリンピックの立役者「保科正之」の登場作品を紹介

漫画
みなもと太郎『風雲児たち』

小説
中村彰彦『保科肥後守お耳帖』『保科肥後守お袖帖』

テレビドラマ
『江戸を斬る 梓右近隠密帳』(TBS、1973年、演:竹脇無我) -主人公梓右近(双子)の兄と設定

『徳川三国志』(NETテレビ、1975年、演:仲谷昇)

『柳生一族の陰謀』(関西テレビ、1978年、演:中村光輝)

『服部半蔵 影の軍団』(関西テレビ、1980年、演:山村聰)

『葵 徳川三代』(NHK大河ドラマ、2000年、演:浜田学(幼年期:佐藤慶季、少年期:松本伸夫))

芸能

Posted by yuukibaron