新美の巨人たち|バタフライスツールで有名なインダストリアルデザイナー柳宗理って誰?本名、経歴を紹介|10/26
今日放送の新美の巨人たちにてバタフライスツールで有名なインダストリアルデザイナー柳宗理が紹介されます。
一体どんな人なんでしょう、皆さん気になりますよね?
そこで今回は「新美の巨人たち|バタフライスツールで有名なインダストリアルデザイナー柳宗理って誰?本名、経歴を紹介」について紹介していきたいと思います。
新美の巨人たち|バタフライスツールで有名なインダストリアルデザイナー柳宗理って誰?本名、プロフィールを紹介
柳 宗理(やなぎ そうり、1915年6月29日 – 2011年12月25日)は、
20世紀に活動した日本のインダストリアルデザイナーです。
戦後日本のインダストリアルデザインの確立と発展における最大の功労者と言われてます。
代表作は「バタフライスツール」(天童木工製作)。ユニークな形態と意外な実用性を兼ね備えた作品が多く知られました。
実父は民芸運動の指導者で思想家の柳宗悦、祖父は柳楢悦です。
工業デザインの他に玩具のデザイン、オブジェなども手がけました。
金沢美術工芸大学客員教授で、本名は柳 宗理(やなぎ むねみち)です。
新美の巨人たち|バタフライスツールで有名なインダストリアルデザイナー柳宗理の経歴を紹介
1915年 東京都原宿に父・柳宗悦と母・兼子の長男として生まれた。弟に美術史家・柳宗玄(宗悦の次男)、園芸研究家・柳宗民(宗悦の三男)がいる。
1934年 東京美術学校洋画科入学。バウハウスにいた水谷武彦の講義でル・コルビュジエの存在を知り、デザインに関心を持つようになった。
1940年 東京美術学校洋画科卒。商工省の水谷良一に誘われ、日本輸出工芸連合会の嘱託となり、当時輸出工芸指導官として来日していたシャルロット・ペリアンの日本視察に同行。日本各地の伝統工芸に触れる。
1942年 坂倉準三建築研究所の研究員となる。
1943年 太平洋戦争の下、坂倉が設計を進めていた日本文化会館の手伝いのために、研究員の身分のまま陸軍の報道班員として南方戦線の激戦の地フィリピンへ渡る。1946年に復員し、敗戦後は工業デザインの研究に着手する。松村硬質陶器シリーズのデザインをするも終戦直後の物資不足の中、焼成の燃料持参でなければ窯業所は生産を行わない為、海中に沈没した軍の徴用船から石炭を運びだし焼成にこぎつけた。1950年、柳宗理デザイン研究所を開設。
1952年 第1回新日本工業デザインコンクールに出品し第1席「レコードプレイヤー」(日本コロムビア製作)、2席を併せて入選。この賞金で財団法人柳工業デザイン研究会を設立する。この頃、日本工業デザイン協会創設に参加した。
1955年 金沢美術工芸大学産業美術学科教授に就任。
1956年 松屋銀座で開催された第一回柳工業デザイン研究会個展にて「バタフライスツール」を発表。
1957年 第11回ミラノ・トリエンナーレに招待出品し、「バタフライスツール」及び「白磁土瓶」が金賞受賞。その後デザイナーとして国際的に活動。
1977年 日本民芸協会会長に就任、翌年には日本民芸館館長に。
1980年 イタリア在住のデザイナーでさえも推挙がなければ困難とされる「ミラノ市近代美術館」でデザイナー初の個展を開いた。
1981年 紫綬褒章。
2002年秋に文化功労者。
2003年 「柳宗理エッセイ」(平凡社ライブラリー)を刊行。
2011年12月25日、肺炎のため東京都内の病院で死去。96歳であった。Wikipediaより抜粋
新美の巨人たち|バタフライスツールで有名なインダストリアルデザイナー柳宗理のバタフライツールって何?
「バタフライ・スツール」は、日本の工業デザインのパイオニアである
柳宗理(やなぎそうり)が1954年にデザインしました。
その名の通り、蝶が羽を広げたような、特異な形ですが、
不思議とお部屋の中でも主張しすぎることなく、程よいスパイスを加えてくれます。
見た目だけで座り心地はイマイチなのでは?と言う声もあるようですが、
適度な木のしなり、板の結合部が生むお尻のフィット感、
そして日本人が腰掛けてちょうどよいサイジングに、日本で生まれた名作家具であることが実感できます。
1957年第11回ミラノ・トリエンナーレに招待出品し、金賞を受賞、1966年にはグッドデザイン賞を受賞。
そして現在では、パリのルーブル美術館、MoMA(ニューヨークの近代美術館)など著名な美術館に収集されています。
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